hideの引退について思うこと
■ブラジル戦――。
ゲーム終了のホイッスルがどよめくスタジアムに鳴り響いたとき、ヒデ(中田英寿)はピッチにくずおれるように倒れ、そのまま天を仰ぎ、しばらく立たなかった。
顔を覆い、鍛えぬたい厚い胸を波打たせていた。泣いていた。ヒデが。
その悔しさは、到底本人以外にはわからないだろうが、あのときわたしは中学最後の雨の試合で負けた試合を思い出した。散々だった。6-0という大敗だった。頬をつたう涙は雨に流され、誰にも気づかれなかった。
もちろんヒデの涙とは比べものにならないほどのちっぽけな涙だった。
そして、テレビ観戦していたわたしは、ピッチに倒れいつまでも立ちあがらないヒデを見つめていた。2006年6月22日のことだ。
ヒデのそばにはスタッフが駆け寄り、声をかけていた。キャプテンの宮本もやってきて声をかけていた。このとき女々しいぞヒデと思った。
だが、誤解だった。
彼の胸には万感の思いが込みあげていたのだ。これが最後だ。これで終わりなんだという思い。そしてこれまでやってきた自分のサッカー人生が、それこそ走馬灯のように駆けめぐっていたのだと思う。
もう少し頑張りたかったという思いより、やはり終わったのだいう気持ちが強かったのではなかろうか。
彼は引退声明のなかでこんなことをいっている。
『責任を負って戦うことの尊さに、大きな感動を覚えながらも子供のころに持っていたボールに対する瑞々しい感情は失われていった』
これこそ真意ではなかろうか。
もっと稼げるのだから何も今やめなくてもいいではないかという人もいる。凡庸で浅ましい考えだ。だが、多くの人はそう思う。
彼にとってサッカーは、結局は金だけではなかったのだ。彼は青臭い言葉を使っている『“新たな自分”探しの旅に出たい』と。そこに好感が持てる。
プロサッカー選手として、ヒデはたしかに人間的にも大きくなり、いろんな面で成長したと思う。その一方で〝計算のある引退〟を感じさせる未成熟さもある。
未成熟さとは、鷹揚にして臈長(ろうた)けた部分だ。もちろん、彼はまだ20代だからそこまで望むほうがおかしいし、望むつもりもない。ただ歳を食うだけで、いつまでも成長できない人間もいるのに、彼はある部分では40、50代より大人になっている。
さっき、計算を感じさせる引退と書いたが、個人的には、サッカー選手をつづけるのも選択肢にあったはずだ。だが、つぎのW杯出場は難しいだろうし、彼の身体的能力はこれから下降線を辿る。それゆえに、ヒデの引き際の潔さに心を打たれる。
彼のいう『新しい旅』にただエールを送りたい。
今日はちと真面目に書いたな。さあ、仕事しよう。
by kingminoru | 2006-07-04 08:43 | サッカー